悠悠自適なオタク生活

好きなことやどうでもいいことを書き綴る、ジャンル崩壊の趣味ブログ。

花總まりさんの『エリザベート』に寄せて

こんにちは。
お久しぶりです、悠です。

2023年1月31日博多座

エリザベートカンパニーの旅路を、花總さんのエリザベートの旅路を、見届けてきました。

晴れやかな表情で、「私のエリザベート、さようなら。ありがとう。」と呟かれた花總さんをこの目で観て、これが最後なんだなと改めて実感しましたが……絶賛、花シシィロスです。

素晴らしい大楽の公演を観ることができて、清々しい気持ちもありますが、やはり寂しいもんは寂しいです。

花總さんがエリザベートを演じないなら、今後、私がエリザベートという作品を観ることもないだろうと思うと、なんとも言い尽くせない気持ちになりました。


そんなわけで、自分の気持ちを整理するためにも、大千秋楽の花シシィを中心とした、今回の花總さんのエリザベートについての感想を綴ってみようと思います。

(今回は、全体を通して、花總さんのエリザベートに対して感じたことを好きに書き綴っていくつもりなので、かなり抽象的な言葉が多くなると思います。ご了承ください。)


感想

はじめに

花總さんが東宝エリザベートを演じた、2015年から2023年まで、ありがたいことに、何度も彼女のエリザベートを観劇することができた。

私と花總さんとの出会いは……以前にも熱く語ったことがあるので割愛するが。

banbi520.hatenablog.com


宝塚在団中は観ることが叶わなかった、彼女のエリザベートを、生で観られたことは、私の人生の宝物である。

2015年・2016年の花シシィからは、自分自身の殻に閉じこもってしまったシシィの孤独が、2019年の花シシィからは、皇后という立場が彼女にもたらした孤高が、色濃く感じられた。


そして、2022年・2023年の花シシィから感じたのは、“生きる”という意志と、強い生命力だった。

どんなときでも、自分の人生を懸命に生きる姿が、心に残っている。

もちろん、この数年で自分自身の受け取り方も変化した。

祖父母の介護にどっぷり浸かった毎日の中で、“生きる”ということ“生き永らえる”ということについて、たくさん考えるし、何が本人にとっての幸せなのかを悩むこともある。

そんな私が、今回の花シシィから感じたのは、藻掻いて、足掻いて、懸命に自分の人生を生き抜こうとする……そんな“生きる”強さだった。

きらきらしていて、眩しくて、真っ直ぐで。

一生懸命に自分の人生を生き抜いた、ひとりの人間の物語に心を奪われたまま、未だに私の魂は、ハカタブルクに置き去りである。


これまでは、皇后という立場ゆえの苦悩が痛いほど伝わってきて、胸が苦しくなることが多かった。

しかし今回は、はにかみやで、自由を愛するひとりの少女が、私たちと同じように、泣いて、笑って、挫けて、それでも魂の自由に手を伸ばし続ける姿に、たくさんの勇気を貰った。

ミュージカルを観ているのではなく、エリザベートというひとりの人間の人生を追体験しているかのような感覚

自然と流れる涙はあれど、作品の中にのまれてしまったような没入感があるので、観劇の感想が浮かばないくらいに、夢中になって観ていた気がする。

ここまで来ても、さらに新しい挑戦をし続ける花總さんには、驚きと尊敬の念を抱くし、そんな素晴らしい俳優に出会えて、私は本当に幸せである。

彼女のエリザベートを見届けられたこと、私は、一生忘れないだろう。


花總さんのエリザベートについて

大楽の花シシィは、私たちと同じ、人生に悩みながらも懸命に生きるひとりの人間として、舞台上に存在していた。

その姿に、彼女から溢れる感情ひとつひとつに共感して、心を揺さぶられる。

今までは、“皇后”ゆえの孤独やエゴ、周りとの違いに心を閉ざしていく様子が印象に残ることが多かったのだが。

今回は、花シシィから受ける印象がかなり変わっていたのが印象的。

ひとりの少女が懸命に生きていく中で、挫折したり、傷ついたり、世の中の理不尽を悟ったりしつつ、最期まで光を目指して歩き続ける物語……そんな印象を受けた。

エリザベートという人物を語る際に、“エゴイスト”という言葉や、“強か”という言葉が使われることがある。

それが否定的なニュアンスで使われることもあり、エリザベートという人物に共感できない」と感じる人が一定数いることも理解している。

人の受け取り方はそれぞれなので、それが間違いだとは思わない。

ただ、個人的には、今回の花總さんのエリザベートは、ひとりの人間として共感できる部分が多いと感じた。

人間は誰しもエゴイストであり、自分の人生を生きるためには、時に強かにもなる。

そういったリアルな心情が伝わってきて、エリザベートに、少しだけ近づけた気がした。


バートイシュルでは、姉のお見合いを心から応援する、家族思いの少女シシィが、出されたマカロンに瞳を輝かせたり、家庭教師と目配せしたり、本当に楽しそうに過ごしている。

鹿に興奮したり、時々思い出したかのように姉の様子を気にかけたり、好奇心旺盛にその場を楽しむ姿は、どこにでもいる、ひとりの少女だ。


フランツと手を取り合う「あなたが側にいれば」では、シシィの初々しい姿に胸がときめく。

初めてのキスで、はっと口を閉じて、ぎゅっと目を瞑る仕草から、緊張が感じられて、親近感さえ湧いてくる。

ぎこちないその姿に、花シシィが“ただの少女”であることを、改めて実感した。


ゾフィー「皇后の務め」を説かれるときのシシィは、まさしく籠の中の小鳥である。

これまで自分が生きてきた世界とは全く違う世界に飛び込んで、困惑する姿が印象的。

「すべて許可がいる」と言われた花シシィは、「乗馬の稽古を……」と口にするとき、ほんのり微笑んでいる。

断られることなど考えてもいないであろうその姿に、胸が痛んだ。

最後まで口にする前に、すげなく“皇后らしくない”という理由で否定されたその願い。

「なぜなの?」と問うシシィの声色から、その困惑が伝わってきた。

「古いしきたりを守らなくてはいけない」という言葉が、ここでシシィの中に深く刻まれたんだろうなと思うと、そのきつい鎖から抜け出したくなる気持ちに共感してしまう。

涙ながらにフランツに助けを求めるが、彼は幼い頃からハプスブルクの紋章を背負って生きてきた、しきたりを重視する皇帝陛下

シシィを優しく慰めるけれど、“しきたり”を変えようなどとは微塵も思っていないフランツの様子が、観ていてもどかしい。

2人の間にある大きな隔たりを目の当たりにして、複雑な気持ちになった。

「一人にしてください」とフランツを部屋から追い出したあと、涙声で呟くように始まる「私だけに」は圧巻である

一曲の中で、シシィがどんどん成長していくのを感じて、思わず息を呑んで見守ってしまった。

一番も二番も、「嫌よ」の部分は、音に乗っているのに完全にセリフだし、「細いロープ手繰って登るの」から「冒険の旅に出る」までの煌めく瞳が、続く「私だけ」という歌詞の部分で、ゆらりと揺らぐのが胸を締めつける。

シシィは、愛する人と一緒に、冒険の旅に出られると信じていたのではないか。

そう思うと、彼女の寂しげな呟きが辛かった。

それまでは、普通の少女として生きてきたシシィが、“古いしきたり”“皇后の義務”に対して、不信感と拒絶を抱くのは、至極当然とも思える。

「捕まえると言うのなら飛び出していくわ」と歌う彼女は、「鳥のように解き放たれて」で空を見上げたあと、「光目指し夜空飛び立つ」という歌詞で、声色を変えて、力強く歌い出す。

その流れるような心の動きが、とても印象に残っている。

以前は、「鳥のように解き放たれて」の部分からフェーズが変わるイメージだったので、どちらかと言うと、そちらの歌詞の方が印象深かったが、今回は、シシィが“光”の方に飛び立っていくというイメージがすぱんと頭に入ってきて、妙に納得させられた。

シシィが望んでいるのは、“解放”だけではない。

“光”を目指して、まだ見ぬ未来に希望を抱く姿は、“生命力”に溢れて、輝いていた。

ハプスブルクの紋章に向けて手を伸ばし、滑り落ちてきたあと、シシィの歌声のフェーズがまたひとつ変化する。

前のめりに、自分のことは自分自身で選び取っていくのだという決意を訴える様子は、あまりに若く、眩しい。

アーカイブを何度も観ていると、“束縛”という単語を発するときの花シシィに、雪組初演の花シシィが過ぎって、鳥肌が立った。

花シシィは、「自由に」と歌ったあとに、一呼吸おいてから、力強く「生きるの」と歌い上げている。

ここで花シシィが紡いだ、“生きる”というフレーズに、私自身が強く惹かれたからなのか、全編を通して、シシィの強い“生命力”に心が震えた。


私の人生を選び取っていくのは私自身だ、と決意した花シシィは、様々なことに臆せず立ち向かい、必死に抗おうとする

子育て、姑との関係、夫との向き合い方。

様々な問題を抱えて、自分なりに懸命に“光”を探す姿は、現代を生きる私たちと変わらない、ただひとりの人間であった。


ハンガリー訪問の場面では、銃声に怯えながらも、勇気を持って、一歩踏み出すシシィの姿に感動した。

世界を変えたければ、まずは自分が踏み出さなければならない。

それを体現するシシィの表情と声色の変化に、勇気を貰った。


そして、花シシィの深い哀しみと怒りに、こちらまで震えてしまったのはデブレツェン

何かひとつ掴んだと思ったら、その手から大切なものがこぼれ落ちていく。

現実の残酷さに胸が痛んだ。

娘を亡くした哀しみと共に、自分自身への怒り、そして、“死”そのものへの怒りも垣間見えて、シシィの苦しそうな声が今でも耳に残っている。


エリザベートの居室の場面では、フランツへの愛情ルドルフへの愛情愛する人とわかり合えない辛さが痛いほど身にしみて、しんどかった。

酷く優しく、そして甘く囁かれる“死の誘惑”に、そのまま身を委ねてしまいそうな花シシィが美しい。

“死”を強く拒絶するというよりは、この先にある“光”を信じているから、まだそちらに逝くわけにはいかないんだという、切実さを感じた。

(この場面は、以前より歌声での感情表現が巧みになっていて驚きました。歌い方を変えてきていたような……。さらにブラッシュアップされていく花總さんのお芝居に、感動と尊敬の念を抱きます。)


そして、鏡の間

振り返ったエリザベートの美しさは、筆舌に尽くしがたい。

フランツの言葉を受けて、すうっと息を吸うエリザベートの姿に、目が眩んだ。

「私だけに」では、自らの服をギュッと握りしめて、涙目で前を見据えていたシシィが、ゆったりとフランツを見下ろして微笑みを浮かべる姿が印象的。

「ただ」とフランツを手で制しながら、「私の人生は私のもの」だと歌うシシィは、自信に満ち溢れて輝いていた。

トートとフランツがどれだけ渇望しても、シシィの人生はシシィだけのものなのだと突きつけられるような、圧倒的なオーラと存在感は流石である。


「私が踊る時」では、精神的にも、肉体的にも、最も充実しているシシィの高揚感が伝わってきて、こちらまでその空気に酔ってしまった。

「やっと歩き出した私だけの道を邪魔しないで」と言いながらも、シシィの表情がほんの僅かに揺らぐ様子が、心に残っている。

人生の絶頂期であっても、一瞬、漠然とした不安がシシィの心を覆う瞬間を目撃して、彼女の人間らしさを感じた。

花シシィが一瞬でも不安に揺らぐと、それに比例して、声色を少し変える古川トート。

2人の呼吸がぴったりと合った、最高の「私が踊る時」だった。

ふとした瞬間に、歌声だけでなく動きもシンクロしていて素晴らしかった。


精神病院では、「私が踊る時」から一転したシシィの姿に驚かされる。

トートダンサーを散らすほどの自信を身に纏い、一瞬過ぎった不安を自らの意志で振り払うほどの強さを手に入れたはずのシシィ。

そんな彼女の、鎧の内側がみえて、こちらも辛くなる。

何を得るために懸命に生きてきたのか。
自分自身が本当に求めているものは何なのか。

揺らぐ感情が声色からも表情からも痛いほど伝わってきて、“皇后エリザベート”ではない、“ただの少女”だったシシィの苦悩に、胸が痛んだ。

“皇后エリザベート”を名乗るヴィンテッシュに強い興味を示し、前のめりになって引き寄せられていく様子も印象的。

「魂の自由」は、初演のときから好きな場面だ。

精神病院に入院している患者に対して、「束縛されるのは身体だけ」だというのは、なかなかに傲慢なのかもしれない。

決して正確な認識とは言えないだろう。

でも、そのときのシシィにとっては、ヴィンテッシュが自分の魂に素直に生きているように映った。

そのシシィの気持ちは、どことなくわかる気がするのだ。

この場面は、ずっとシシィの感情に引きずられて、胸が引き攣るようだった。

懸命に生きているはずのに、どこか虚しさが消えない
自分の生きてきた人生は、選んできた道は、果たして本当に正しかったのだろうか。

私自身も、そんな不安に襲われることがある。

シシィの不安と孤独に共鳴してしまい、しんどかった。

劇場では、花シシィの表情に釘付けだったが、アーカイブで観た、スターレイや病院職員のお芝居も心に残っている。

ヴィンテッシュに対して、「私が本当にあなたならよかった」と零し、心情を吐露するシシィを、複雑な表情で見つめるスターレ

“孤独”に身を震わせるシシィを、心配そうにうかがう病院職員。

しばらくシシィの方を気遣うように見つめていた職員もいて、彼女がもう少し周りに頼ることができていたなら、“幸せ”を感じることができたのかもしれない、と思うと、なんとも切なかった。

シシィに必要だったのは、“狂えるほどの勇気”ではなかったのだろう。

ハンガリーで三色旗のドレスを身に纏ったときのように、一歩踏み出す勇気を持つことが、シシィには必要だったのかもしれない。

コルフ島でのマックスの声が、脳裏を駆け巡った。


体操室でのシシィのお芝居では、以前よりも声が柔らかいのが印象的だった。

心を閉じきっているわけではなく、なんというか……美しさに執着することで、心のバランスを保っているような、そんな印象。

そのため、リヒテンシュタインの声掛けへの反応も、頑なな拒否というよりは、大したことはないから大丈夫、と言っているようだった。

(ちなみに、秋園さんのリヒテンシュタインの安心感も大好きでした。特にこのシーンでのセリフ「神様気がつかれた……」が大好きで、いつも我が家のエリザベートごっこに登場します。)

フランツの裏切りは、シシィにとって“死”が過ぎるほどの衝撃だったのだと思うと、2人の間には、たしかに愛があったのだと、改めて感じた。

甘美に、そして、激しく迫りくる“死の誘惑”を跳ね除けるシシィが、ふっと笑みを浮かべたのが心に残っている。

思わず零れ出たような一瞬の笑いは、自らを嘲笑しているようで、観ていて苦しかった。


そして、今回一番印象深かったのは、コルフ島での「パパみたいに(リプライズ)」

後に、【花シシィと原パパ】の項目で詳しく触れるが、この2人の掛け合いが、エリザベートの人生の根っこの部分に繋がっているような気がして……。

私にとって、とても大切なシーンとなった。

今回は、シシィとマックスパパの関係性が特に好きで、それを意識しながら見つめていたので、いろいろな感情がごちゃ混ぜになってしまって、涙でオペラグラスが曇った。


毎回その迫力に圧倒されてしまうルドルフの葬儀の場面

大楽では幼きルドルフではなく、大人のルドルフを探しているようだった。

いつ倒れてもおかしくないくらいの覚束ない足取りフランツのことも見えていないほどの憔悴ぶりは、何度観ても胸を締めつけられる。

“死”の気配に鋭い声をぶつけ、「死なせて」と縋りつく場面、その歌声と迫力に肌がぞわりとした。

まだ心から“死”を求めていないと突き返されたあと、ここでもシシィは笑う。

自らを嘲るように、そして、現実から逃げるように。

カメラのシャッター音で我に返って叫び声をあげるまで、劇場全体が花シシィの痛いくらいの哀しみにのみ込まれたかのように、静寂に包まれていた。


最後の「夜のボート」は、酷く穏やかで優しい、すれ違う2人のラブソングだった。

シシィの「いいえ、でも予感がいたしました。」のセリフの声色に、あまりにも多くの感情が含まれていて、そこだけで涙が出た。

2人が会話を交わすように始まり、歩み寄ろうとしても、それぞれが別々のゴールを見つめてすれ違う。

以前、まりまりペアで観劇したときは、この2人は「あなたが側にいれば」から不安が過ぎる組み合わせだと感じたのだが。

大楽では、その運命に抗おうとする万里生フランツの愛と、お互いの違いさえ包み込むような花シシィの愛とが感じられて、不思議な感覚になった。

間違いなく、2人は愛し合っている。
それでも相容れることはできなかった。

そんな印象を受けた。

「愛にも癒せないことがあるわ」というシシィの言葉が、2人のすべてを表しているようだった。



最後、刺されたあとの昇天の場面

観たことのないくらいに力強く歌う花シシィの姿が、脳裏に焼きついて離れない。

シシィはきっと、懸命に自分の人生を生きてきて、最期の瞬間まで、自分の人生を生き抜いたんだという、説得力のあるエンディングだった。

シシィは“死の誘惑”に揺れながらも自死を選ばずに、自分の人生を生ききった。

だからこそ、すべてを削ぎ落としたシシィが、最も美しく輝いて見えたのだと思う。

花シシィの表情を受けて、穏やかに優しく微笑む古川トートが印象的。

シシィの力強い歌声とトートの包み込むような優しい歌声の調和が美しい。


こんなにも幸せな結末だと思えたエリザベートは、はじめてだった。

最後に、穏やかな気持ちエリザベートを見送ることができて、本当によかったと思う。


私にとって、花總さんのエリザベートは、唯一無二の特別な存在だ。


私のエリザベート、さようなら。ありがとう。


花シシィと古川トートの化学反応

“死”をどう捉えるのか。

エリザベートという作品を観る上で、この部分の解釈は多様に存在する。

トートはルキーニが創り出したものだと感じる人もいるかもしれないし、エリザベートが持つ希死念慮だと感じる人もいるだろうし、他にも、受け取る人によって様々な見方ができる。

それがこの作品の面白さでもあると思うのだが。


個人的には、今回の古川トートを観て、タナトスの誘惑”という言葉が浮かんだ。

ここまでしっくりとこの表現が当てはまるトートを、私は他に知らない。

“死の欲望”

今回の花シシィは、“生命力”が強い分、それと同じくらい、もしくは、それ以上に、“死”を意識していたのではないかと感じた。

ルキーニにも、ルドルフにも、フランツにも介入できない、エリザベートとトートの間にのみ存在する繋がり

それがとても印象深かった。

お互いに憧憬と畏れを感じていて、なによりも、強く惹かれ合っている。

その様子が美しく、これが“死の愛”ということなのか……と、妙に納得した。

2人の芝居の化学反応歌声の調和よく似た美しい容姿それらの要素がすべて合わさったからこそ生まれた奇跡に、心から感謝している。


この2人の組み合わせで一番好きな場面は、最後の昇天シーンで歌われる「愛のテーマ」だ。

話の本質を考えたとき、ここで「愛のテーマ」……?と疑問に思うこともあったが、今回はすとんと腑に落ちた。

シシィの晴れやかな表情から、自らの人生を全うしたんだと感じられたこと、トートが“死”として、シシィが自ら選んだ最期を穏やかに迎え入れてくれたこと。

この2人のトートとシシィを観て、パズルのピースがハマるみたいに、エリザベートという作品と、トートという存在に答えが出た気がした。

「私が踊る時」の歌声と芝居、動きの調和ももちろん素晴らしいが、個人的に、花シシィ×古川トートによる「愛のテーマ」が、あまりにも心に響いて……。

花古コンビの良さがぎゅっと詰まった、この2人だからこそ感じる、心身共に溶け合っていく感覚に、胸がときめく。

前述したように、大楽の花シシィは、観たことのないくらいに、力強く歌い上げていて、その輝きから目が離せなかった。

どんな華やかな衣装を着ている場面よりも、最後の昇天の場面のシシィが一番美しかった

繰り返しになるが、シシィの内面からの飾らない輝きが、今でも瞼の裏に焼きついている。

エリザベートというひとりの人間の人生が、これだけ多くの人に愛され、妬まれ、関心を寄せられ続ける理由を悟ったような……言い尽くせない不思議な気持ちになった。

アーカイブを何度も観ているうちに、この眩さは、花總さん自身の魂の輝きでもあるのだろうな……と感じるようになった。

エリザベートの人生と、花總さん自身のキャリアが重なってしまって、ファンとしては胸に迫るものがある。


小難しい解釈はここまでにして、ここからは、花古のキュンポイントをいくつか抜粋して綴ってみようと思う。

まずは、「愛と死の輪舞曲」

この2人が踊ると、宝塚のデュエットダンスみたいに美しくて、かなりときめいた。

古川トートが「身体に刻まれて」の部分で、あまりにも良い表情をするので、こちらまでその熱にあてられてキュンキュンしてしまう。

あと、この2人は、やっぱり並んだときのバランスが良すぎる。

顔の小ささや手足の長さ腰の位置に至るまで、ここまで画になるとは……と改めて感動した。

まさしくマンガから飛び出してきたような2人


「最後のダンス」では、シシィから視線を一切逸らさずに、不躾なお辞儀もどきをする、激おこ古川トート閣下にツボってしまった。

ぎゅうっと強めに拳を握りしめているし、♪2人の愛は……のところは、鼻で笑っているし……。

シシィがフランツと結婚?心底気に食わないんだけど?みたいな態度を隠しもしない閣下の熱が、まあとにかく凄い。

トートダンサーと踊る(正確には踊らされている、だが)花シシィの可憐なドレス姿にもキュンとするし、トートの操り人形のように、ふわりと宙に浮かぶリフトの美しさにも惚れ惚れするが、何よりも、花古のデュエットダンスが観られるのがありがたい。

2人とも、振付を振付に見せないダンスが上手いなという印象があるのだが、ここではまさしく、その2人の良さが活かされていて、テンションが上がった。

ここで立ち上がって、ここで回されて、ここで引き寄せられて……と段取りは決まっているはずなのに、絶対にそれを悟らせない動きは流石である。

軽やかに花シシィを操る古川トートも、逃げようとするものの抗えず、彼の腕の中で舞うことになる花シシィも、本当に美しい。

2人のデュエットダンスをずっと観ていたい気分だった。

あと、トートとトートダンサーズが縦並びで、千手観音みたいになる場面

配信ではじめてしっかり観ることができて嬉しかった。

古川トートならではのトートダンサーとの連携がとても好き。


デブレツェンでの古川トートの人外っぽい気色の悪さは、どこかセバスチャンを彷彿とさせて、鳥肌が立った。

いやらしさはないものの、花シシィにねっとりと絡みつくその様子には、背筋がぞくりとする。

古川さんは、人外を演るのが巧い。

随所で、古川トートと花シシィの相性の良さが活きていて、ぐっときた。


居室では甘く優しく体操室では激しく情熱的に花シシィに迫る古川トートが観られて、楽しかった。

よく触るし、よく撫でるし、花シシィへの執着が強いのが古川トートの好きなところなのだが、大楽ということもあってか、芝居も歌も熱量が最高値だった印象。


トートとシシィは鏡というわけではないのに、随所で似た仕草や、動きのシンクロがあって、不思議な感覚だった。

タナトス”として、万人を死に誘うトートが、エリザベートの生命力の強さに惹かれて、最終的に1つの魂になったのではないかと思ったのだが……。

上手く言語化できないのがもどかしい……。

別の意識を持つけれど、同じ存在から生まれた2つの魂。
そんなイメージ。

花芳もまりまりも花シュガも、もちろん大好きだが、花古からしか得られないものが確実にあるなと改めて実感した大楽だった。


そして私は、未だにゆん花MAの亡霊なので、どうか次はMAでの共演を……と願わずにはいられない。

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共演が叶ったら、今度こそ記憶だけじゃなく記録にも残しておくれ……


花シシィと原マックスパパ

今回、花シシィ×原マックスパパの関係性がとても好きで、アーカイブでは、原パパの表情にも注目して観ていた。

「パパみたいに」での2人の仲良しぶりと可愛さに、ときめきが止まらない。

原パパは、歌声がダンディで背も高くて、とにかくとっても格好良い

花シシィと並ぶと、きゅんきゅんしてしまう。

このパパとのシーンは、シシィの原点であり、エリザベートという人物を語る上で欠かせないフレーズがたくさん出てくる。

堅苦しい場所から逃げてみたい」「自由に生きたい」と歌う花シシィは、瞳を輝かせて、まだ見ぬ未来への希望を抱いているようにみえた。

この場面で、自由人で変わり者と言われていたマックスへの憧れ共鳴がより強く感じられるようになった。

だからこそ、コルフ島での「パパみたいに(リプライズ)」が、より一層心に響いたのだと思う。

近づいてきたのが父親の魂だと気がついたときの、「……パパなのね」の声色と、泣きそうな表情があまりにも複雑で、胸がぎゅっと苦しくなった。

2人が「自由に生きたい」と歌うたびに、1幕の「パパみたいに」の幸せな光景が脳裏に浮かんで、なんとも言えない気持ちになる。

優しく語りかけるような原パパの歌声と、ぽつりぽつりと心境が零れ落ちていくような花シシィの歌声が印象的だった。

パパが歌う「諦めずに勇気を出して」というフレーズが、シシィへの愛に溢れていて好き。

「何者にも縛られずに」というパパの声が聞こえたとき、花シシィの表情が僅かに変わる瞬間を観て、ああ……やはりこの2人は今でもずっと自由に手を伸ばし続けているんだなと感じた。

大楽のコルフ島での花シシィは、諦めの中に揺らぎがあって、まだもしかしたら……という微かな希望と、もう遅すぎる……という諦めの気持ちとが行ったり来たりしているようだった。


ちなみに、個人的な原パパの好きポイントは、結婚式である。

表情も仕草も、シシィへの心配と愛に溢れていてたまらない。

誰よりもシシィを愛し、その幸せを願い、彼女を心配そうに見つめていて、パパ……シシィを連れていって!自由に生きて……!という気持ちになった。


最後に

正直、今回は、エリザベートの人生のすべてを一緒に追体験しているような感覚だったので、劇場で感想を思い起こす余裕すらありませんでした。

ホテルに帰ってアーカイブを観て、帰路でもアーカイブを観て、帰宅後も時間を作ってはアーカイブを観て………。

そうして漸く、記憶を補填するように感想がぽつりぽつりと浮かんできた、という感じです。

なんというか……今回の観劇体験の凄まじさは筆舌に尽くしがたく、自分の感想が誰かの感動に水を差してしまうんではないかと、不安でした。

なので、感想をブログに書くこと自体、非常に悩みましたが、花總まりさんのいちファンとしてエリザベートという作品のいちファンとして、自分の気持ちに整理をつけたくて、こうして、ここに綴っています。

花總さんのエリザベートが、もう劇場で観られない……という事実は、未だに私の心の中でぐるぐるしていて、簡単には切り替えられません。

ぶっちゃけ、めちゃくちゃ寂しいです

でも、カーテンコールの花總さんの表情を見て泣きそうになったり、花古による公開ご飯のお誘いを生で聞いて大笑いしたり、小池先生の独特な間にひとりツボったりして、寂しさはあれど、不思議と悲しみはありませんでした。


WOWOWさんが放送してくれるって信じてるから……きっと花總まりさん特集をやってくれるはずだから……。

その日が来るまで、私は毎日祈ります。


長い文章に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。


では、また。