お久しぶりです、悠です。
溜めに溜めていた『エリザベート』の話を、ついに書き上げたので、今更ですが投稿します。
長文となっておりますので、お時間のある方はぜひどうぞ。
はじめに
2020年『エリザベート』が、新型コロナウイルスの影響により、全公演中止になってしまい、今年は遠征をしないと決めていた私は、なんと、今年一度も劇場に行くことなく年を越すことになった。
誰のせいでもないからこそ、もどかしさと寂しさ、虚しさが募ってしまい、何とも言いようのない気分で、他の推しを追いながら静かに過ごす日々…。
昨年の感想記事の下書きを見て、これを書き上げることで、この寂しさをひとときでも紛らわすことが出来るのではないかと思い、本当に今更ながら、書き上げた。
(分量がかなり多くなっていますので、ご注意ください!)
2019年版『エリザベート』は、ありがたいことに3度観劇が叶った。
■花シシィ(花總まりさん)×ゆんトート(古川雄大さん)×成河ルキーニ(成河さん)×きょもルドルフ(京本大我さん)
→この組み合わせが個人的には一番好き。
■花シシィ×ゆんトート×いくさぶルキーニ(山崎育三郎さん)×三浦ルドルフ(三浦涼介さん)
→ゆん花コンビの最終日は、こちらの組み合わせで観劇。
達成ルドルフ(木村達成さん)を観られなかったのは一生の不覚…。
推しは推せるときに推せ、というのと同時に、観たい人は観られるときに観ておけ、という言葉をしみじみ実感した。
達成ルドルフ観てみたかったなぁ…。
もし、機会がまたあるのなら……その時には後悔のないように、絶対に拝見したい…!!
ここから先は、マイベストキャストの感想をメインに、『エリザベート』について語っていこうと思う。
2019年『エリザベート』
2019年の観劇で、個人的には初めて、この物語を咀嚼することができたと思う。
(解釈は様々なので、あくまで、私なりの『エリザベート』に納得がいったという意味です。)
自分自身が身近な人の死を経験したこともあるが、“生きる”ことと“死ぬ”ことについて、考える機会が増えたのも大きいんだろうなと思う。
これまでは、『エリザベート』という作品を観劇するにあたって、敢えて、深すぎる考察(考察と呼べるほど明確ではないが)を避けてきた。
“愛と死”とか“生と死”とかいうシンプルなテーマだからこそ、あまりに解釈が無限に広がりすぎてしまうし、正解はないだろうと思うから。
ファンタジーと史実を組み合わせたエンターテインメント作品の1つとして、楽しんで観ることに徹していたのだが。
今回のキャストが発表になったとき、
という組み合わせに、かなり滾ってしまって、衝動的にチケットを取っていた。
『MA』で、凄まじいまでのゆん花の芝居の相乗効果、相性の良さを目の当たりにした上での『エリザベート』での共演。
間違いなく、想像をはるかに上回る、今まで観たことのない『エリザベート』が観られると確信していた。
跳ね上がった期待を胸に観劇したのだが。
結論から言えば、個人的には、ゆん花の組み合わせを観て初めて、自分の中でよくわかっていなかった部分について、あ、そういうことだったのか、と納得することができた、気がする。
(日によって毎日キャスト陣の芝居は変わるし、キャストの組み合わせによっても全く違った作品に見えてくるので、あくまで、個人的な感覚ですが。)
これぞ、自分が待っていた、観てみたかった『エリザベート』かもしれないと思ったのだ。
(誤解のないように言っておくけれど、当方、もちろん、花芳も大好きです!!歌で殴り合ってる感じがたまらなく好き。2019年、日程の都合上、芳雄閣下が観れなかったのは切ない。もう本当に…2020年は芳雄閣下もたくさん観る予定だったので、思い出す度に後悔が…。)
花シシィ×ルキーニ
まず、好みが大きく分かれそうな成河ルキーニについて。
彼の芝居は巧い。それは間違いない。
特に今回(2019年公演)は、あくまでストーリーテラーとして立ち回っているのが非常によかった。
ストーリーテラーであると同時に、この物語の始まりと終わりを司る人物でもあるルキーニを、圧倒的な存在感で提示してくれるので、観ていて目が足りなくなってしまうほど。
まるで、この世の負の感情(怒り、憎悪、嫌悪、妬み、恨みなど)のエネルギーをすべて煮詰めたような芝居が、恐ろしいとさえ感じた。
花シシィ、ゆんトート、きょもルドルフとの組み合わせで観た印象として強いのは、成河ルキーニの異物感である。
ゆん花きょもの、どこか現実離れした美しさに対し、人間のエゴイスティックで傲慢な部分を、これでもかと打ち出して、強い存在感を放っていたのが印象的。
皇族に対する強すぎる憎悪、だからと言って民衆にも馴染めない孤独、自分の犯した罪に対する罪悪感、その罪を正当化しようとする歪な正義感。
それらの感情がルキーニの中で煮えたぎって、ごちゃごちゃに混ざって、最終的には、自らが殺害したシシィと共鳴できる部分(死への憧憬)を見出す。
この歪さの表現があまりにも巧すぎて、正直、体力、精神力ともに弱っているときには、彼の芝居を観たくないとまで思う。
観ると、負のパワーの強さに引き摺られるというか。
言い方を変えれば、観る人を選ぶくらいにパワーのある役者だと思う。
(ちなみに私は彼の毒素好きです。今までに観たことないタイプの演者さんで、観ていて面白いので。)
お芝居についての抽象的な感想が続いたが、今回驚いたのは歌。
2016年に観たときと比べて、飛躍的に歌が聴きやすくなっていて、凄いなと思った。
2016年に観劇した際には、お芝居の成河ルキーニ、歌のいくさぶルキーニという印象が強かったのだが。
今年は、成河さんの歌も格段に良くなっていて、ストーリーテラーとしての役割をしっかりと果たしていた。
また、ゆんトートと成河ルキーニの関係性は実に面白くて、考察しがいのある組み合わせだった。
ゆんトートがよくやる、唇をなぞる仕草。
この仕草を、成河ルキーニも事あるごとになぞっていて、彼と“死”が一心同体であるような、そんな錯覚に陥ってしまう。
加えて、成河ルキーニの花シシィに対しての感情の動きも興味深かった。
前半は特に、自分が殺した女は、エゴイストで傲慢な女だったのだから、殺した自分は悪くないと思い込もうとしているように見えるのだけれど。
非常に自分勝手で不安定なルキーニの内面と、トート(“死”)に対して、憎悪と憧憬という相反する感情を抱いていたシシィの心の揺れとが重なって感じたのは初めてだった。
花シシィと成河ルキーニのお芝居で、初めてシシィとルキーニに重なる部分を感じて、良い意味で混乱してしまい、考察しながら頭を抱えた。
花シシィの孤独に、成河ルキーニが共鳴している…?と思える瞬間がちらほらあって、ぞくぞくした。
今回、特に興味深かったのは、精神病院のシーン。
最初は、ヴィンテッシュを敢えてシシィにぶつけ、その反応を楽しむように見つめていたルキーニが、だんだんとその顔から笑みを消して、シシィを観察するように、じっと視線を固定するのだが。
精神を患った患者に対しての怯えや哀れみだけでなく、このときの花シシィの表情には、興味や憧れにも似た感情がありありと浮かんでいる。
ヴィンテッシュと向き合い、シシィが「魂の自由」を歌っている間中、ルキーニはシシィをじっと見つめていた。
いつもの茶化しているような、ふざけた表情ではなく、敢えて言葉にするならば、シシィの本質を探るような、静かで真っ直ぐな視線だった。
自らの運命と人生を嘆くシシィに対するルキーニは、他のシーンよりも心が近くにあるように感じたのだ。
個人的には、ここがシシィとルキーニの共鳴する部分なのではないかと思う。
ルキーニ自身も、ヴィンテッシュのようには狂いきれず、人を殺した罪悪感から逃れられていない。
そんな自身の姿と、それに抗って、どれだけ苦しんでも、狂いきれないシシィの姿が重なったのではないかと感じた。
ただ、どれだけ強く“死”に焦がれても、シシィは最期まで、生きることを捨てなかった。
その一方、ルキーニは自死を選び、それを実行し、実現させたけれど、果たして、それは本当に“魂”の解放になり得たのか。
似た部分を持つ2人が異なる選択をして、それぞれがそれぞれの結末に向かう様が、とてもしっくりときた。
私の中での、成河ルキーニのイメージは、キチガイの仮面を被った何も持たない小さな男、なのだが。
「悪夢」のシーンでは、喜びに身体を震わせているようにも、恐怖に身体を震わせているようにも見える。
ぎりぎりの均衡を保っていた精神が音をたてて壊れていくのを目の当たりにしたような、そんな感覚になった。
花シシィがルドルフの葬儀で渇いた笑いをこぼしたとき、彼女は一瞬、あちら側(ヴィンテッシュ側)に落ちかけているようにも思える。
それと同じく、「悪夢」のときのルキーニも、あちら側の世界に踏み込んでいるように見えた。
暗殺の動機を聞かれたルキーニは、それまでの嘲るような表情とも声色とも似つかない、何ともおどおどとした様子に豹変する。
おそらくこれが彼の本質なのだと感じた。
自分より恵まれている(正確には、恵まれているように見えていただけだが。)ものに対する憎悪と憧憬が暴走した結果、殺人を犯してしまった憐れな男。
それがルキーニだったのかもしれない。
シシィを刺したときの挙動も、とてもおどおどしていて、強い憎悪だけでなく、戸惑いや怯えがみえた。
そして、最期の場面で、恍惚とした表情を浮かべながら、自死を実現させて、ルキーニは笑う。
なんとも、文字にしてみると伝えるのが難しいのだが。
狂気的にみえても、結局狂いきれなかった男が、自分と同じように、“死”に焦がれているのに、それに抗う女に出会い、困惑の中で、共鳴と憧憬、そこから派生した妬みや憎しみを育てていったような、そんな複雑な関係性を、花シシィと成河ルキーニに感じて、ぞくぞくしてしまった。
花シシィとの相性がとても良くて、花シシィに呼応して存在感を放つ成河ルキーニに何度も驚かされた。好きです。
ただ、彼の演じるルキーニが好きすぎるので、他の役で観るのに躊躇してしまう。
もう少しこの気持ちが落ち着いてからじゃないと、再共演があったとしても素直に喜べないかも(^_^;)。
あと、何より、成河ルキーニの「死の嘆き」のときの鬼畜っぷりは、おそらく一生忘れない。怖かった。
ひたすら芝居の世界にどっぷり沈んでいくような観劇がしたいときには、成河ルキーニはぴったりだと思う。
今後のルキーニのキャストに成河さんがいないことは予想していたし、彼の役者としてのこだわりも共感までは至らなくとも、なんとなくわかっていたので、覚悟はできている。
ただ、やはり、芝居の相互効果という意味で、花總さんとの相性が抜群に良いし、他の役者さんのお芝居にもかなり深い爪痕を残していたので、成河さんがいなくなるのは寂しい。
彼がルキーニをどう掘り下げていくのか、もっと観ていたかったという気持ちも正直ある。
まぁ、ルキーニに関しては、演者によって数多の解釈が広がるので、いろいろな役者さんのルキーニが観られたら、楽しいとは思う。
というわけで、随分、長く熱く成河ルキーニについて語ってしまったが、全く違った印象を残した、いくさぶルキーニについても、もう少し語らせてほしい。
彼のルキーニは、一言で表すなら、優しい。
もちろん、シシィを殺すし、狂気をはらんではいる。
だが、おかしな人間ではないのだ。
まともな人間だった、はず。私はそう感じた。
シシィと似ているという感覚は、こちらではあまり感じなかった。
どちらかと言うと、環境によりそうならざるを得なかった、という印象。
だからこそ、時に、毒素の強い成河ルキーニよりも残酷に見えることがある。
花シシィの「死の嘆き」を見つめるいくさぶルキーニは、成河ルキーニのように、花シシィの絶望に追い打ちをかけるようなことはしない。
でも、その平静さがある意味で、より残酷に思えた。
無関心、というか、花シシィの絶望に心を揺らしていないようにみえて、彼がそうならざるを得なかった暗い過去を勝手に思ってしまった。
バートイシュルのシーンは、花シシィといくさぶルキーニがあまりに仲良しで可愛くて……、このまま友達になれそう……などと夢物語を描きそうになった。
ミュージカルを楽しむなら、私はいくさぶルキーニがいい。
彼のルキーニは、環境のせいでそうするしかなかった、品の良さが微かに残ったルキーニだ。
だから、どんな瞬間もちゃんと、汚くとも美しい。
宝塚版のルキーニのような美しさを持ちながら、東宝版のルキーニのエグさも絶妙に併せ持っているので、良い意味で、とても観やすい。
そして何より歌が良い。
甘い調子で茶化すように歌ったり、憎悪を滲ませた強い歌声を響かせたり。
トートとのフェイク合戦?のシーンは、最高にテンションが上がる。
結局どっちも好き。観られるはずだったいくさぶトートにも想いを馳せつつ、いくさぶルキーニにも焦がれてしまうなぁ……。
トートとは何者か
次に、小池先生曰く”エキセントリック”なトート(“死”)像を作り上げている、ゆんトートについて。
新しく、斬新で、息を呑むほど美しい。
それがゆんトートの印象である。
とにかく、今まで見たことのない新しい感覚のトート(“死”)だった。
シシィと対峙しているときは、シシィの感情の動き、生命の輝きに比例して存在し、ルドルフと対峙しているときは、ルドルフの感情の動き、心の揺れに比例して存在する。
対ルキーニにおいても同じように感じた。
ゆんトートには、“圧倒的で絶対的な死”というより、“常に側にある魅惑的な死”という印象を受けた。
非常に人間的にも見えて、その一方で、酷く冷たい人外の何かであるようにも見える。
氷のような絶対的なビジュアルに反して、その表情には驚くほど豊かな感情が表れるのが、観ていてとても興味深かった。
ゆんトートの表情が動くとき、対している人物の感情も強く揺れ動いている。
例えば、花シシィに迫るデブレツィンのシーン。
シシィの拒絶の強さに比例して、彼の表情、動きはより豊かに、妖艶になるのだ。
冷たさの中に激情を宿す様が、花シシィの孤高に重なり、きょもルドルフの不安定さに重なる。
もっと踏み込むなら、成河ルキーニの狂気と正気の狭間で揺蕩う姿にも重なる。
内面を映す鏡のような存在。
人の心に生まれる感情を映すような、そんなトートだった。
実際自分の目で観るまでは、レポなどから、感情豊かな恋する死神タイプ?もしかして解釈が私とは違うかも?と勝手に怖気づいていたが。
まあなんとも面白い、というか、新しいトートが作り上げられていたので、観ていて楽しかった。
歌に関しても、彼の良さがちゃんと発揮されていたように思う。
鼻にかかる声が、花シシィともきょもルドルフとも似ていて、それがたまらなく好き。
この組み合わせで観ると、きょもルドルフは花シシィとゆんトートの息子なのでは?!と訳のわからない次元に引っ張られそうになる。
そのくらい親和性の高い組み合わせで、自分の中で、アナザーストーリーが勝手に始まりそうだった。
花シシィとの歌声の相性は、『MA』で感じたとおりバッチリ。
ただ、「私が踊る時」みたいな曲は、花芳コンビのような、歌で殴り合う感じも忘れられない。
ゆん花だと、声質が似ているからか、歌声が融け合う感じなので、どうしても全体的に柔らかく聞こえがちというか。
いや、どっちも好きだけども。
この2人は、『MA』のフェルマリがあまりに好きすぎるので、ちょっとそういう色眼鏡で観てしまってるところあるかもしれない。
花マリーとゆんフェルセンに会いたい……。
話が逸れたが、ゆん花によるトートとシシィは、私には、表裏一体に見えた。
いろいろな感想があると思うけれど、個人的には、花シシィの”生”への執着・”自由”への渇望の裏側にゆんトートがいる、というイメージ。
姿形もとても似ているからか、2人のシーンは融け合うというか、重なり合うようにみえるときが多々あって、とても滾る想いがあった。
なんというか…ゆんトートは、人間の内面にある“生”への感情を映す鏡であるから、その存在が“死”である、というか…。
例えば、対ルキーニ(成河ルキの場合は特に)にとっては憧憬の対象となる存在であり、対ルドルフ(きょもルドの場合)には身近な友人のような存在となる。
対シシィ(花シシィの場合)にとっては、時に強く惹かれ合い、またある時には強く反発し合う存在。
それを愛と呼ぶかどうかはわからないけれど、花シシィとゆんトートは、他の誰よりも心の距離が近いのが印象的だった。
(物理的距離もめちゃくちゃ近くて、ゆん花でそれをされると、なんだかそわそわしてしまいました。宝塚のラブシーンをみているようでした……。)
そんな解釈で観ていたので、ラストシーンは、トートという器に入っていた、シシィの感情の半分が、シシィに帰って行ったような、残されたのは空っぽの器だけ、といった印象を受けた。
今まで観劇した中でも、個人的には、一番すっと心に染み込んだ結末だったように思う。
古川くんはもともと、花總さんとの芝居の相性がいいので、花シシィ×ゆんトートは、個人的にはとてもしっくりきた。
ゆん花はとにかく最高に美しくて、一見すると人形のように見られがちなのに、きちんと心の仄暗い部分がみえて、人間の愚かさと美しさを見事に表現していたのが印象的。
きょもルドルフが加わると、より一層美しさに目が眩むので、とにかく最高だった。
個人的に、花シシィ×ゆんトート×きょもルドルフの組み合わせは、本当に好みど真ん中、歌声も芝居も大好きな組み合わせで、もう二度と観られない、且つ、どこにも記録として残っていないのが切なすぎる……。
花シシィの深化
まず、大前提として、私がこの世界に目覚めたのは、“花總まり”という役者に出会ったから、という点を明記しておきたい。
彼女の芝居を目の当たりにして、衝撃と感動を同時に受けて、今の私がある。
だから、感想に随分と私情が挟まれていても、そこは許してほしい。
宝塚時代の花シシィ
宝塚時代、花總さんは二度シシィを演じられている。
どちらも生で観劇することは叶わなかったが、映像では何度も観た。
花總さんのシシィといえば、宙組時代の成熟したシシィ像が挙げられることが多いが、個人的には、一路真輝さん率いる初演雪組の圧倒的な芝居力と歌唱力に勝るものは今後一生出てこないのではないかと思うレベルで、私は初演雪組の『エリザベート』を愛している。
(もちろん宙組時代の存在感ましましの色っぽい花シシィも好きです、花總さんのシシィは全部好き……。)
実力派揃いの雪組の中で、まだあどけなく初々しい花總さんの姿が、まさしくシシィそのものだった。
人として、母として、皇后として。
晩年に至っても、成熟しきれない少女性を持ち合わせていたシシィに、若く美しい、まだ完成しきっていない花總さんがぴったりとハマって、シシィの魂と共鳴しているようだった。
そんな花シシィを導くような、一路トートの氷のような美貌と歌声があまりに素敵すぎて、宝塚版のトートの中では一番好きだったりする。
(ちなみにゆきさんフランツ(高嶺ふぶきさん)も、宝塚版で最も好きなフランツです。ハンサムすぎるビジュアルと、優しくて甘い歌声に惚れました。『仮面のロマネスク』のヴァルモン子爵は伝説。花總さんと踊るラストのデュエット、美しすぎて泣きました。)
初演雪組のときの「鏡の間」のシーン、花シシィの美しさは人智を超えていたと思う。
化粧も装飾品もただの飾りであり、なによりも輝いているのはシシィの内側からの“生”の力なのだということを痛感させられた。
花シシィ自身が強く発光しているようで、初めて観たときに衝撃を受けたのをよく覚えている。
エリザベート−愛と死の輪舞−(’96年雪組・宝塚)【動画配信】
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東宝版での花シシィ
宝塚時代から、より一層輝きと強さを増した花總さん自身に重なるような、新たなシシィ像を毎回更新されていて、尊敬と感謝しかない。
2015年、花總さんのシシィがまた観られると聞いて、私は初めて帝国劇場へ行った。
その年は、花總さんのシシィが生で観られた感動と興奮により、記憶が定かではないのだが、花總さんが出てきた瞬間にボロ泣きしてしまったことだけは覚えている。
花シシィ×城田トート、一度だけの観劇だった。
翌年、全国ツアーが決定し、前年に観ることが叶わなかった芳雄閣下を初めて観劇。
あまりの声量おばけっぷりに愕然とすると同時に、花芳の良さに目覚める。
芳雄閣下の楽日のチケットを運良くゲットし、その年の花芳の集大成を見届けた。
このコンビに関しては「私が踊る時」が一番好き。
歌と歌との殴り合いが凄まじくて、各々が全力でぶつかり合う様が圧巻なのだ。
花總さんは元々、そこまで声が太いタイプではないし、単純に歌の上手さだけでみるならば圧倒的という訳ではない。
実際、そういった感想のレポも読んだことがあるし、そこに関しては否定しない。
ただ、私は、花總さんの芝居歌がこの世界で一番好きなのだ。
ただの歌ではない。
あくまで芝居が根幹にあり、歌詞はセリフになる。
コンサートだろうと何だろうと、彼女が歌い出した瞬間に、その人物の想いが、置かれている状況が、周りの情景が一瞬で浮かぶのだ。
たとえが極端だが、彼女が歌えばカラオケボックスが王宮に変わる、と私は思っている。
歌声が泣いていたり、浮かれていたり、諦めていたり、怒りに震えていたり。
決してセリフと歌がバラバラにならない。
セリフが歌であり、歌がセリフであるというミュージカル独特の流れが、とても自然に入ってくる。
話が逸れてしまったが、そんな花總さんの芝居歌と、声量おばけの芳雄閣下との掛け合いは、最高に熱かった。
花總さんは公演を重ねる毎に、歌の技術的な部分をどんどん向上させていき、芳雄さんもどんどん感情的な芝居歌が巧みになっていき…。
最高峰の歌声のバトルに魅せられてしまった。
正直、2016年の花シシィがあまりにも素晴らしくて、この年で最後になってしまったとしても、後悔しないだろうなとまで思った。
強さと弱さ、幼さと成熟、美しさとエゴ。
それらすべてのパーツが、花シシィの中でぴたりとはまったような、そんな感覚に陥った。
冒頭からバートイシュルのシーンまでの初々しさと可愛らしさが、前年よりも増し増しだった点も作用して、よりシシィの生涯がリアルに感じられた。
ここで一度、私は、私の中にある『エリザベート』という作品の最高峰を観てしまった。
2019年の再演が発表されたとき、嬉しさ半分怖さ半分だったのには、そんな理由があったのだ。
2019年の花シシィ(×きょもルドルフ・×万里生フランツ)
前置きが長くなってしまったが、ここからが本題である。
結論から言うと、2019年の花シシィは演技の域を超越していた、と感じた。
『MA』を経て、より深化したシシィの姿に、また驚かされたのを昨日のことのようにはっきりと覚えている。
まず、母親としての在り方が変わった。
長女ゾフィーが亡くなった後のシーンの嘆きが、叫びが、よりリアルになっていて、震える声と比例するような、憎しみと怒り、やるせなさを宿した揺れる瞳が印象的。
その瞳に射抜かれたトートとの温度差に、ぞくりとくるものがある。
ルドルフと対峙するシーンの印象も変わった。
これまでは拒絶の意志がかなり強く、完全に心を閉じることで自身を守っている印象だったが、2019年の花シシィには諦めと悟りのような、それまでとは違う感覚を覚えた。
最初から拒絶をするのではなくて、自らも変えることができなかった、どうにもならない現実を説き伏せるような。
花シシィ×きょもルドルフだと、姿形がよく似ているので、より一層わかりやすい。
自身の若き日に重なる、きょもルドルフの希望を捨てていない瞳を直視するのを避けて、そして、諦めを促すような、そんな声色と視線だったように思う。
ただ、フランツの名前が出た途端に、彼女の耳はルドルフの言葉を聞くことを拒んでしまった。
この時、シシィの脳裏には、すれ違ってしまったフランツとの辛い記憶が浮かんだのかもしれないし、ハンガリーでの戴冠式で感じた言い様のない高揚感と孤独感を思い出していたのかもしれない。
とにかく、希望は早く捨ててしまいなさいとでも言いたげな花シシィの姿に、昔のシシィの面影を残したきょもルドルフが打ちひしがれる姿は、観ていてとても胸が痛かった。
あんなにも天真爛漫で、自由を愛していた美しい少女が、いつの間にか、自分自身でも気づかぬうちに、心を閉じ込め、諦めを覚えてしまったという点に、酷く切ない気持ちになった。
花シシィが序盤にみせていた初々しい可憐さ、中盤あたりの絶頂期の自信に満ちた勝気な美しさ、終盤の心を閉ざし、諦めてしまった頑なな姿。
その変遷があまりにも自然で、役を生き抜く花總さんのパワーに圧倒された。
シシィの生き様は、我儘なエゴイストという側面ばかりが印象に残りがちだが、その中にある、彼女なりの愛や苦悩をきちんと拾い上げて、感情の機微まで表現する花總さんに感動した。
これまでの観劇体験の中で、最もシシィに心を寄せた観劇だったと思う。
だからこそ、フランツとのすれ違いも辛くて辛くて……。
私は今回、万里生フランツ(田代万里生さん)しか観られなかったのだが、彼のフランツは、規律を重んじる立派な皇帝だった。
そうであるからこそ、最初から花シシィとは異なるボートに乗っていることが明確で、本人たちはそれに気づいていないという、滑稽さが鋭く刺さる。
バートイシュルのシーンで、幸せそうに微笑みあう2人に、こんなにも不安を感じたのは初めてだった。
これはキャストの組み合わせの関係もあるけれど、ゆんトート×花シシィ×成河ルキーニ×万里生フランツ×きょもルドルフだと、万里生フランツの陽の世界観が異質に映るのがとても興味深い。
ルキーニの時には、ゆん花きょもの3人と成河さんの対比に触れたが、それと似た感覚。
ゆん花きょも成の何処か仄暗く、陰を感じさせる雰囲気と、万里生さんの正義を纏う真っ直ぐさとの対比が役にぴったりで、見事にハマった。
”死”そのものであるゆんトート、自死を選ぶことはしなかったけれど、常に傍にある”死”を意識し惹かれていた花シシィ、”死”に救いと憧れを抱き、自死を実現した成河ルキーニ、”死”に怯えながらも、シシィと同じく”死”に強く惹かれ自死を選んだきょもルドルフ。
トート以外の面々は、三者三様に”生”と”死”の強い繋がりを意識しており、”死”について常に考えているのがわかる。
だからこそ、この3人にはゆんトートが見えるし、彼の言葉や動きに翻弄される。
一方、万里生フランツに目を向けてみると、彼にとっての”死”は自然の摂理であり、そこに自身の意思や選択は含まれていないように感じた。
だから、「悪夢」まで、万里生フランツにはゆんトートが見えない。
もう少し簡潔に言い表すなら、”自死”という選択肢を常に持って生きていた3人と、”自死”という選択肢自体を持たないフランツ、といったところだろうか。
このあたりは完全なる主観に基づく感想なので、根拠はないが。
少女期に生死の境を彷徨ったシシィは、そこで一度”死”に触れているからこそ、”死”の身近さを知っているのではないかと感じた。
そういった側面から見ても、フランツとシシィは性質が異なっていて、最初からずっとすれ違いを起こしているのが、とても切なかった。
(おそらく、芳雄閣下×花シシィ×いくさぶルキーニ×万里生フランツだったら、感じ方はかなり変わってくるだろうと思います。芳雄さんは陰よりだけれど、いくさぶさんは陽の要素が強いと思っているので、陰と陽のバランスがまた違ってきただろうなぁ……観たかった…。)
同じボートに乗って、互いに異なる方向を向いているだけならば、ボートが沈まぬ限りは共に在れたかもしれないが、今回の花シシィ×万里生フランツの場合は、完全に、最初から異なるボートに乗る2人だったのが感じ取れてしまって、はぐれてしまうことを予感させる組み合わせだった。
2019年の公演では、お互いの異なる性質に惹かれあったはずなのに、その違いが大きな摩擦を生んでしまうのだろうなというのが随所に垣間見えていて、2人のシーンで心から笑えずに苦しかったのを今でもよく覚えている。
そんな風に感じる2人だったからこそ、「夜のボート」があまりにも辛くて……ここのシーンは、これまでで一番泣いた。
まさしく、2人の歌うとおりに、重ならない影が重くて、痛くて。
すべてを諦めたように薄く微笑む花シシィと、まだ必死に彼女のボートを手繰り寄せようとする万里生フランツの姿が印象的だった。
いつの回だったか、穏やかな表情の花シシィに手を伸ばす万里生フランツの頬に、一筋涙が伝っているのを見てしまって、もうどうしようもなく叫びたくなったことがある。
あれは本当に、きつかった。
作品を観ているというより、作品の中に引きずり込まれてしまったようで、胸が引き攣るように痛かった。
花シシィ×ゆんトート感想追記
書ききれていなかった部分を追記しました!!
ゆんトートと花シシィによる「愛と死の輪舞」。
まずは、念願叶って、ゆん花のこの曲が観られて幸せだった。
二人で組んで踊る部分が少し減っていたのは寂しかったけれど、並んだ時のバランスがとても良くて、重力を感じさせない軽やかさで舞う花シシィに見惚れてしまった。
『MA』のときも思ったけど、ゆん花は宝塚のトップコンビのような美しさがあるのがとても好きで。
生々しさを感じさせないのに、品のいい色気が漂っているのが最高で、ゆんトートの鼻にかかる甘やかな声も相まって、とても素敵だった。
ゆんトート、天を仰ぐようにして瞳を閉じていた回があって、恍惚とした表情を浮かべていたのが凄く良くて。
それに呼応するように、花シシィがじぃっとゆんトートを見つめていて、あぁ…強く”死”に惹かれているなと思ったら、ぞくっときてしまった。
ゆん花だと、こういうときの表情が、一瞬そっくりに重なって見えるから、表裏一体、花シシィの中から流れ出た一部分、みたいな感覚になるんだろうなと。好きです。
次に、花シシィの「私だけに」。
調子が良くなさそうかも…という他の方のレポを読んでいたので、心配していたけど、そんなもの吹き飛ばすような、魂の絶唱だった。
曲の中で、シシィが自我に目覚め、新たな決意をするまでの様子をまざまざと見せつけられたような感覚。
まず、”義務を押しつけられたら”の部分でひとつ、”鳥のように解き放たれて”の部分で、さらにもうひとつと心境が変わっていくのと共に、声色も変わっていくのがわかって、ずっと鳥肌が立ちっぱなしだった。
ゆん花の最終日は、間奏部分で、花シシィが”わぁー!”と大きく口を開けて叫んでいたのがとても印象的で。
内に秘めていたものを爆発させるような叫びが、シシィの決意を表していたようだった。
その後の歌い出しで、”嫌よ 人目にさらされるなど”の部分から、がらりと歌い方が変わるのがまた凄まじい。
純粋で無邪気だった少女が、ひとりの女性に成長した瞬間が感じられて、ぐっときた。
花總さんは、どこまでエリザベートの魂と同化していってしまうんだろうか…と怖くなるほどの衝撃だった。
順番が前後してしまうけれど、ゆんトートの「最後のダンス」も期待以上の格好よさ+怖さだった。
悪い顔してにたりと笑うの格好よすぎる。
花シシィが本気で泣いて嫌がっているのが、吐息や鼻をすする音でわかるので、それを喜々として振り回すゆんトートに人ではない何かを感じて、怖かった。
花シシィは本気で泣いてるけれど、ぐいっとゆんトートに引き寄せられると、一瞬目を逸らせなくなっていて、ここでもめちゃくちゃ”死”と惹かれあってるじゃんか……と滾ってしまった。
ゆん花のデブレツィンがあまりに色っぽかったのは、おそらくみなさん感じられていると思うが、本当にここは……。
娘の死に酷く取り乱す花シシィがとても危うくて、そして壮絶に美しい。
後悔と哀しみ、そして”死”に対する強い憎悪が花シシィの声の震えや、漏れる呻き声から伝わってきて苦しくなった。
その感情の大きさに比例するようなゆんトートの気味の悪さが絶妙。
花シシィの感情が強ければ強いほど、笑みを浮かべてにじり寄るゆんトートがいきいきしていて、あんなにも美しい姿形をしているのに、良い意味で気持ち悪くて、最高だった。
ぞっとしたのは、花シシィをその腕にしっかりと抱え込んで、髪をゆるゆると撫でたり、あろうことか涙を拭うように頬に触れたりしていたこと。
その仕草がやらしくならないのが、ゆん花の魅力だなと改めて感じた。とても良き。美しかった。
鏡の間でも、ゆんトートは天を仰いでいたんだけれど、目をぎゅっと閉じて、胸に手を当てている姿は、まるで絵画のようだった。
花シシィが発光しているのは毎回のことだけれど、今回は扇を広げるときの、くっと前を見据えた強い表情が超絶美しすぎて、くらりとした。
ゆん花の融け合う声に、声質の違う万里生フランツの声が重なる三重奏は、綺麗なハーモニーを奏でていて、素晴らしかった。
「私が踊るとき」は花芳のような、バチバチの歌の殴り合いじゃなくて、融け合ってひとつに重なって聴こえるので、ゆん花コンビならではの良さを堪能した。
花シシィの最高峰の美しさに若干気圧されているゆんトートの表情も印象的。
「精神病院」のシーン、実はこのシーンの花シシィが全編の中で最も好きで、2019年はおそらく過去一泣いた。
ヴィンテッシュの瞳の中に、自身が求めていた自由を見出す花シシィの声が震えていて。
それを見守るスターレイも後ろで涙を流しているんだけれど、シシィは振り返らない……。
だから、自身に寄り添おうとする者がいることに気がつかないまま、ひとりで雁字搦めになっていってしまう。
自分で自分を孤高の存在に追い込んでしまった花シシィが歌う、”あなたのほうが自由”のフレーズがあまりにも穏やかな声で、思わずボロ泣きしてしまった。
本当に、どうして花シシィは、あんなにも心臓をぎゅっと掴むような表情ができるんだろうか……。恐るべし、花總さん。
そして、みんな大好き体操室のゆん花。
脈をとるゆんトートが、花シシィの手をにぎにぎしているようにしか見えなくて、思わず笑ってしまった。
コルセットもわざと見せつけるように落としてみたり、さらっと取ってしれっと落としたりと、回によって違っていて、おぉ…けしからん!となった。
”待っていたぁああ!!!”のあとは、火花バチバチ。
全力で拒否する花シシィの腕を、かなり強引に掴むゆんトートの瞳がぎらついていて、演出上絶対にあり得ないとわかっているのに、花シシィが黄泉の国に連れ去られそうで心配になった。
ゆんトート、どの場面でも、距離の詰め方がえげつないので、どきっとさせられる。
そして、その度に、花シシィがはっと息を呑んだり、うぅ…と苦しそうに声を漏らしたりするのをマイクが拾うので、それにもどきどきさせられた。
2019年の公演では、コルフ島で花シシィが歌う「パパみたいに」が、とても印象的だった。
”自由に生きたい ジプシーのように”と歌う花シシィの声が、少女時代の輝きを一瞬取り戻すのが、切なくて。
その後に、”もう遅すぎる”と続くのがあまりに辛かった。
ゆんトート×きょもルドルフの「闇が広がる」は、言わずもがな、2人の阿吽の呼吸に感動しつつ、2人並んだ時の画の美しさに撃墜された。
ここ2人も、ゆん花を観ているときのような親和性の高さを感じさせる。
声の相性も良くて、美しかった。
花シシィの”死”への想いを受け継いで生まれてきて、”死”の影を背負い、美しく成長したきょもルドルフ……。
花きょもが鏡同士で、ゆん花も鏡同士で、ゆんきょもも鏡同士……。
考察のしがいがある3人で、もう2度と見れないであろうことが心から残念な組み合わせだった。
ルドルフの葬儀のシーン、花シシィの憔悴ぶりがさらに増していて、フランツの声など全く聞こえておらず、ふらふらと彷徨う姿は、まるで亡霊のようだった。
心臓を半分抉り取られたような様子で、幼子に語りかけるように、”ルドルフ、何処なの?”と溢す言葉が、小刻みに震えているのが辛い。
お芝居だとわかっていても、膝から崩れ落ちる花シシィの姿に胸が痛んだ。
ゆんトートに”死なせて”と縋る場面、ゆん花最終日は、花シシィがあまりにも鬼気迫っていて、ゆんトートの腿のあたりに力なくずり落ちた手が深く印象に残っている。
ゆんトートに突き放されてからも、花シシィは渇いた笑みを浮かべたまま、しばらくその場に呆然と立ち尽くしていて。
いつも以上に覚束ない足取りで階段を下りる姿があまりに痛ましくて、目を逸らしたくなるほどだった。
ルキーニのシャッター音で、ようやくこちら側の世界に戻ってきたような、花シシィの凄まじい悲鳴だけが響いて。
劇場中が絶望に染まっているような、観客席の息を呑むような静けさが印象的だった。
このシーン後は、大切な何かを落としてきたかのような花シシィの姿にずっと心を痛めていたけれど、最後の昇天の場面で、ようやく観ているこちら側の心も解放されたような気がする。
花シシィとゆんトートが見つめ合った瞬間、花が咲くように、ふわりと穏やかな表情を浮かべた花シシィに涙腺崩壊。
2人の声が重なって、融けて、ひとつになって、そのまま花シシィに帰っていくようだった。
声の相性はもちろん、2人が並んだ姿があまりに美しくて。
口づけが儀式めいていて、なんだか今まで感じたことがない類の感情が湧き上がってくるようなラストだった。
個人的には、花シシィ×ゆんトートの組み合わせだと、本編で辛く感じる場面が増えた分、ラストシーンがこれまで以上に、”救い”や”解放”の意味合いを強く含んでいるように思えて、不思議な感覚だった。
好きです。最高でした。
最後に
思うままに、順序も気にせず書き連ねたせいで、分量もかなり多くなってしまったし、抽象的且つ主観的な感想になってしまったけれど、溜めていた想いを吐き出せて、すっきりしました。
元あった下書きを加筆修正しながら、当時のことを思い出しては、えぐえぐ泣きそうになったり……。
今年、大好きなシュガンツが再来するはずで、昨年観られなかった花芳を観る気まんまんで待っていて、その分、落ち込み度合いも大きかったですが……きっとこのまま花シシィが終わってしまうなんてそんなことはないと信じています。
また、大好きなエリザカンパニーに会える日が来ますように……!!
最後まで長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。
では、また。