悠悠自適なオタク生活

好きなことやどうでもいいことを書き綴る、ジャンル崩壊の趣味ブログ。

某フェスの中止について感じたこと

こんにちは、お久しぶりです。
悠です。

最近、実生活がハードモードで、なかなかブログを書けずストレスが溜まっていますが、昨日発表された表題の件に思うところがあり、自分の備忘録として、少しだけここに綴っておきます。


ロッキンの中止

ロッキンジャパンフェスティバル。
死ぬまでに一度は行ってみたいフェスのひとつです。


ロックの枠に留まらず、知らない音楽にたくさん出会える場所。


そんなイメージがあります。


行ったことのない人間が語る言葉は、きっと薄っぺらく聞こえてしまうけれど、それでもやはり、今回の中止については、悔しさを拭いきれません。

「仕方ないよね」「次の機会を待とう」なんて言ってられるほど、私は物わかりがよくありません。


「次の機会」なんて本当に訪れるのかさえわからない。


大好きなバンドのメンバーを失ったとき、それを痛感しました。

大好きなバンドが解散したとき、それを痛感しました。


スポーツ選手が魂をかけて試合に臨むように、アーティストだって、スタッフだって、魂をかけてひとつのイベントに臨んでいる。

そう思うと、1音楽ファンである私ですら、こんなにもやるせない気持ちでいっぱいになります。

関係者のみなさんの気持ちを思うと、心が痛むし、ただただ無念でなりません。


個人的な思い

〇〇はやるのになぜだめなんだ!フェスを中止にするなら〇〇も中止にしろ!と論ずるつもりはありません。

一概に同じ土俵で比べられるものではないと思うから。


ただ、気になる点はあります。

まず、基準に従った対策を講じているフェスに対して、中止の要請に至った具体的な理由が述べられないのはなぜか、という点。

春のJAPAN JAM、ビバラロックは、どちらも強い反発にあいながらも、感染者を出すことはありませんでした。

この1年間で行われてきた様々なイベントやライブの成功は、どう捉えられているのか。

これらの成功が、対策に一定の効果があったというエビデンスには、なり得なかったのか。

そのあたりが非常に曖昧で、モヤモヤしています。


さらに、1ヶ月前というギリギリのタイミングでの要請書は、これまで1年間かけて詰めてきた対策をきちんと検討した上でのものだったのか、という点にも疑問は残ります。

曖昧かつ、抽象的な表現で、判断はフェスの主催側に任せるというのは、あまりに無責任に思えてなりません。

関係各所と1年かけて練ってきたものをひっくり返すというには、具体的な根拠も基準も足りないように感じました。


今回、渋谷さんのコメントに、あまりにもたくさんの感情が詰まっていて、読んでいて胸が締め付けられるような思いでした。

アーティスト各位から出された言葉にも、それぞれの切実な思いが滲み出ていて、何とも形容し難い、複雑な気持ちになります。


音楽、ライブ、フェス、演劇、ミュージカル、その他イベント。

私がここまで踏ん張ってこれたのは、心の拠り所として、音楽がそこに居てくれたからです。

それらを創り出す人達に、これ以上傷ついてほしくない、というのが本音です。

DEAD POP FESTIVAL然り、京都大作戦然り。

ここまで1年かけて繋いできたものが、途切れてしまうことがありませんように。

そして、ロッキンと同じく中止を余儀なくされたフェスすべてが、必ずリベンジできますように。


今回中止せざるを得なかったフェスの悔しさをパワーにして、現在開催が予定されている各地のフェスが、“無事に”開催できることを心から祈っています。


感情が溢れて、まとまりのない文章になってしまいましたが、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

では、また。