悠悠自適なオタク生活

好きなことやどうでもいいことを書き綴る、ジャンル崩壊の趣味ブログ。

閑話(介護の話)

こんにちは、悠です。

ここ最近、私生活で壮絶なバトルが繰り広げられており、毎日浮き沈みの激しい日々を過ごしています。

推しに癒やされた直後、現実のじじとばばにアッパーカットをくらわされる……。

ぶっちゃけ結構、情緒は不安定だと思います。
 

ほんと、ドキュメンタリー映画でも撮ろうかなと思うレベルです。

自分の祖父母が悪代官、否、極悪非道な悪魔に見えてくるので、そろそろ本気でやばいと思います。

という訳で、今日の閑話はずばり。
介護の愚痴です。

愚痴なので、そういうの嫌!という方はUターンお願いいたします。


最近は特に、途轍もない閉塞感と、しんどさと、現実にぶちのめされて、何もかもが億劫な日々でした。

伯父一家の来訪は、私に余計なストレスを増やし、仕事を増やし、嵐のように過ぎ去りました。


でも、じじばばがどれだけ理不尽でも、放っておくことはできなくて、結局私がやらざるを得ないし、ちょっとでも昔みたいに穏やかな姿を見ると、施設入所への躊躇いが生まれてしまう自分の阿呆さにも嫌気が差します。

しんどいときは顔を見るのも、声を聞くのも嫌なのに……。

まあとりあえずいってみましょう。


介護は毎日が戦いです。

メンタルクラッシャーの祖母

認知症中期程度の症状があるものの、まだ自分のことは自分でできると思っている祖母。

大腿骨骨折の手術のために2ヶ月ほど入院し、そこからはデイリハビリに週3回通いながら、自宅で生活している。

自分のことができないわけではないが祖父の世話は無理、自宅で過ごしたいなら家族の協力が必要、という判断を受け、本人は施設入所を嫌がっているし、と覚悟を決めて、在宅介護の決断をした。

それからというもの、私は、母と共に、祖父母の家にほぼ住み込み状態で、介護、介護、介護の日々である。

仕事の都合上、母は外に働きに出てくれているが、私はほぼ家にこもりきり。

その代わり、祖父母の普段の世話は私が担当することになっていて、絶妙に微妙なバランスを保ちながら、私達家族の生活は成り立っている。


祖母の介護は、とにかく精神的なストレスが凄まじい。

言葉の暴力って本当にこんなにもしんどいものなんだなと、祖母との生活をしていて改めて学んだ。

完全にボケている、というわけでもないが、暴言は留まることを知らず、こちらの気まで狂いそうになる。

  • 感謝の言葉は基本言わない。
  • 無視、もしくは、愚痴、もしくは、文句。

(「黙れ」「何も言うな」「黙って世話だけしろ」「あんたなんて孫じゃない」「よそ者は出ていけ」「顔も見たくない」「あんたのことが世界で一番嫌いだ」「(すぐ消してしまうのでエアコンのリモコンを没収したときには)私はあんたに殺されるんだでね」「あんたなんかと同じ家に住んでることが地獄だ」「出ていけ」「はやく私の前からいなくなれ」「あんたの作った飯なんか食えるか(こういうときは大体、作ったスープを流しにぶちまけられたり、チャーハンをひっくり返されそうになったりします)」……等々。思い出していたら虚しくなってきました。症状のひとつとして、暴言はノートに記録しているのですが……改めて羅列すると、結構きついですね…。私は一体、なんのために、誰のために、介護をやってるんでしょうか……。)

  • 極稀にかかってくる親戚からの電話や、デイリハビリのスタッフさん、役場の職員やケアマネージャーさんなど、他人と話すときは、孫である私と、娘である母の悪口をあることないこと言う。挙げ句、この人たちが勝手に来たもんだから…いなくても生活できるのに……みたいなことも平気で言う。

(ケアマネさんが、一番お世話になっていて、近くにいてくれる家族のことを悪く言う人は結構多いんです、とおっしゃっていました。心を尽くしても、それが伝わらないどころか、その心すら否定されるような言動ばかりをとられていては、正直、気持ちを維持できなかったりするよなぁと…。)

  • 下の世話に関する話をすると不機嫌になり逆ギレ。

(本人のプライドも理解できますし、基本は自分で片付けようとするので、できる限り見守るように心がけていますが、やはり上手く片付けられずさらに被害を拡大されることが多々あります。仕方のないことなので、それ自体に文句はありませんが、下の世話をしている人間にものを投げたり、理不尽に怒鳴ったりするのは……意味がわかりません。八つ当たりも大概にしてくれ……とやるせない気持ちになります。正直、ここに書けないくらいに酷い有様になった部屋やトイレを見ると、こちらが吐き気を催します。)

  • 「こんな風に生活するくらいなら死んだほうがマシ」と連呼される。

(これ、何気に一番しんどいかもしれません。こちとら、自分だけの自由な時間がなくて、毎日彼らの世話をし続けなくてはいけない日々に嫌気が差して、早く解放されたいと願っては、自己嫌悪に陥っているのに…。解放って…?私は自分の祖父母に対して、早くいなくなって欲しいと思ってしまったの?とどうしようもなく辛くなっては、また嫌気が差して…を繰り返しています。なのに、本人に“こんなことなら死にたい”と簡単に言われるのは……本当にきついです。)

  • 「お前はうちの名字じゃないからうちの孫じゃない!」と怒鳴られ、仏壇の掃除をしていても「触るな!」と怒られる。

(祖母の娘が私の母なので、私が実の孫なのは間違いありませんが、母は一度実家を出て嫁いだ身、たしかに名字は違います。本当なら私だって、ここから出ていきたいけれど、この家の名字を継いでいる伯父一家は離れた土地に住んでいて、電話すら私と母から催促しないとかけてこないし、何なら早く家を売って祖父母を施設に……と言う人たちなのに……。一番身近で世話をする私にばかり暴言を吐くので、正直しんどいです。)


祖母が、物凄いスピードで人として壊れていくさまを見続けるのは心底しんどい。

嫌いになりたくないと言う気持ちと、ここまで言われて何故こんなにも頑張らなくちゃいけないんだろうという気持ちがせめぎ合って、いつもどうしたらいいかわからなくなる。

最近は感覚を麻痺させるように、言われたことに対してなるべく心を波立たせないようにしているが、やはり積み重なると、かなりしんどい。



身体的にキツイ祖父

祖父の場合は、暴れるし、声は大きいし、力も強いので、身体的な介護のキツさがレベチである。

引っかき傷多数、青あざ多数、噛まれた跡多数で、散々な有り様……。 

気分の波が激しいので、スムーズに言うことを聞いて動いてくれるときと、駄々をこねて暴れるときとの差が激しい。

最近は、暴れる頻度が高くなってきて、傷も増える日々だ。


元々現代的というか、変わり者だった祖父は、認知症になるまでは、携帯を使いこなし、犬型ロボットを操り、釣りのテレビゲームを楽しむ、とても面白い人だったと記憶している。

祖父手作りのコマやけん玉など、様々なおもちゃで一緒に遊んだのも懐かしい思い出だ。


そんな祖父も、もう94歳になった。

心臓を患ってペースメーカーを入れてから、しばらくは元気に頑張っていたが、どんどん認知の症状が進んでしまい、今はデイサービスに週3回通っている。

私のことは、よく世話してくれるどこか見たことのある姉ちゃん、くらいに思っているようで、“孫”という認識はおそらくほぼない。

状態が落ち着いているときは、私の指示に従って、着替えやトイレ、食事等をゆっくり安全に行うことができるが、必ず見守りが必要である。

少し目を離せばズボンの上にズボンを履いてしまうし、トイレを洗面所やキッチンと間違えるし、食事を喉に詰まらせて盛大に噎せてしまう。

一時も目を離せないというのは、なかなか大変である。

自分がトイレに行きたいときは、一度祖父に声をかけてから、部屋の音が聞こえるように居間の扉は開け放っておく。

料理の際も、必ず視界の端に祖父の姿が見えるように立つ。

他の家事をしているときも必ずだ。

もちろん、本人がトイレに行ったら後ろから見守らなくてはいけないし、上手くできないときは手伝い、片付けてやらなくてはならない。

正直、かなりきつい。


それに加えて、機嫌が悪いときは、叩く、突き飛ばす、蹴る、噛む、といった暴力行為を受けながら、着替えをさせるのだ。

どれだけ以前の祖父が面白い人だったとしても、我慢には限度がある。

私だって人間だ。


介護支援のサイトや書籍には、“認知症の人には声を荒げてはいけない”だの、“一番孤独を感じて、混乱しているのは本人です。優しく声がけしてあげましょう。”だの、“落ち着くのを待ちましょう”だの、“人間としての尊厳を傷つけないようにしましょう”だの、理論的、道徳的には正しいであろう方法だけが書かれているが。

繰り返しになるが、介護者だってひとりの人間なのだ。

顔を蹴り飛ばされれば腹が立つし、突き飛ばして押し倒されたり、腕を思いっきり噛まれたりしたら、やり返しはしないもの、声を荒げるくらいはしたくもなる。

それが逆効果だと頭ではわかっていても、咄嗟に怒ってしまって、そのたびに、サイトや書籍で見た言葉がよぎるのだ。

ああ、私はなんて酷い介護者なんだろう…と。

一生懸命やっても自分のことは認識されない。

言葉を尽くして頼んでも理解できない。

認知症だから。
何をしても許される?

暴力を振るう祖父を見ながら、いつも考えることだ。

どうしたらいいのか。
どうすることがお互いのためになるのか。

今でも答えはわからないし、答えが出る気もしない。


介護を経験したことのない人から見ると、介護者が悪役で、被介護者が善良に見えるかもしれない。

認知症の人間に対して、無理やり強制しているように見えるかもしれない。


その認識が、家族介護に励む介護者を傷つけていると、知ってほしい。

介護施設と家族による在宅介護は違う。

それを知ってほしい。


私には相談できる母がいて、信頼できるケアマネがいて、祖父母共に、デイサービスを週3回ずつ利用できているから、まだ恵まれているのだろうと思う。

それでもこんなにもしんどい。

前向きに考えられるときと、そうでないときがあって、そうでないときは自己嫌悪に陥る。

そういう現状をここに書き記して置きたいと思う。

将来、この日々を良い経験だったと振り返ることができますように。


最後に

繰り返しになるが、我が家の場合は、要介護3の祖父と要介護2の祖母が週に3回ずつそれぞれのデイサービスに通っている。

恵まれている方だと思う。

もっとしんどい環境の中で闘っている方もいるし、私のように“推し”で心を癒やす暇すらない人だっているはずだ。


自分の中に溜まったストレスが爆発しそうだったので、自分を客観視したくて今回ブログに残したが、なんだか少しだけ凝り固まっていた頭が動き出したような気がする。


大丈夫。もう少し頑張れる。

限界が来る前にちゃんと頼ることを忘れない。


自分の気持ちをコントロールするのは難しいが、今はまだ自分で操縦できている…はずなので、潰れないように慎重に進んでいきたいと思う。

介護と闘うすべての人に、ちょっとの幸せと希望が生まれますように。



ほぼほぼ愚痴ばかりのブログになってしまいましたが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。


少し気持ちが落ち着いてきたので、これからはまた、推しを愛でつつ、ゆるりとブログにも遊びに来たいと思います。

不定期亀更新ではありますが、また遊びに来てやってください。